玉川近代美術館について

元学芸員:白石和子

(1999年〜2011年)


1.徳生忠常さんについて 2.松本竣介さんについて

2. 〜 松本竣介さんについて 〜


1912年(明治45年)、4月19日東京府多摩郡渋谷町大字青山北町7丁目27番地に佐藤勝身、ハナの次男として生まれ、本名佐藤俊介といいます。2歳の時、父、勝身の林檎酒造の事業参画に伴って一家で岩手県花巻市に移り、1919年、花巻川口町立花城尋常小学校に入学しますが、その後一家で勝身に郷里である盛岡市に移り、4月岩手県師範学校付属小学校に転校しています。

1925年13歳の3月18日、付属小学校を卒業しますが、4月5日流行性脳脊髄膜症の兆候が現れ、翌日岩手県立盛岡中学校の入学式に出席しますが、激しい頭痛のため早退、入院し、重体が数日続き、聴覚を失うといった事態に陥ります。10月2日から再登校しますが、中学1年生を繰り返すことになりました。このころ盛岡市王町に移ります。

竣介の将来を家族は大変心配したことでしょう。父勝身は慰みに写真道具一式を贈り、盛岡中学卒業後、東京府立一中補修科に通う兄彬が友人の古沢行夫のすすめにより、油絵道具 一式を買い俊介に送ります。その後山王山や山王の風景などを描いています。

1982年16歳の時、岩手日報に投稿した詩「天に続く道」が掲載されました。

「天に続く道」

松本竣介遺稿より

鉛筆をかついで
とぼとぼと
荒野の中をさまよえば
初めって知った野中に
天に続いた道がある
自分の心に独りごといひながら
私は天に続いた道を行く

「岩手日報」昭和3年12月17日



盛岡中学の3年修了後、中途退学をした竣介は、画家への志望を深めていきました。1929年兄の彬を頼って母と上京します。太平洋画会研究所(1930年から太平洋美術学校と改称)に入り本格的に画家になる決心をします。
竣介は、太平洋画会研究所に在学中”太平洋近代美術研究会”をつくり、その同人、石田進一、勝本勝義、薗田猛、田尻稲四郎、山内為男たちと竣介の命名による機関紙”線”を編集発行します。麻生三郎もこの年に太平洋美術学校に入学しています。

1932年20歳の時、機関紙”線”の同人たちと太平洋美術学校を退学し、豊島区に赤荳会を結成し、貸しアトリエで、本格的に絵の研究を始めました。この頃より靉光との交流が始まります。竣介は兵役免除を受けます。その後赤荳会は解散、仲間は茶房りりおむに集い交流は続きました。メンバーには、鶴岡、難波田、麻生、寺田らもいました。

翌1933年、第5回北斗会美術展に5点出品、兄彬が「生長の家」刊行の「生命の美術」誌の創刊に携わり、竣介も文章や挿絵を寄稿、編集にも携わっています。第3回新人画会展(銀座資生堂画廊)が開催され茶房りりおむで「洋画小品展」をひらき、≪鉄工場≫など出品します。その後美術展に出品を続け、NOVA第2号「画室の覚え書き」を寄稿し、鶴岡政男、難波田龍起らと交流を深めました。

1935年、23歳の時、第22回二科展に≪建物≫を出品し、初入選を果たします。画家へのデビューを果たした作品ですが、紙の上に薄く絵具を重ね、太い筆の線で形成し、その線も濃い肯で強調 されていて、ルオーの影響がみられます。以後1943年の二科展解散まで連続して毎年出品を続けました。

24歳の2月3日松本禎子と結婚し、松本家に入籍、佐藤から松本姓にかわりました。この時はまだ松本竣介です。
また竣介は禎子とともに下落合のアトリエを綜合工房と名付けてデッサンとエッセイの月刊誌”雑記帳”を編集発行しました。

1937年25歳の時、4月4日長男晋が誕生しますが、翌日に亡くなりました。そのため”雑記帳”5月号は臨時休刊となり、秋には資金難のため”雑記帳”の廃刊を決めました。短命は雑誌ではありましたが、編集にあたった竣介自身の思索を深めることになったといえます。

松本竣介の画家としての出発の時代の作品《建物》1935年から絶筆の一つといわれる《建物》1948年に至るまで、静謐な詩情と緊張あふれる都会の風景や運河風景などは、建物によって構成されていますが、後の「街」シリーズにおいてもその原点は《建物》であり、元来几帳面で、技術者を志した時期もあった竣介にとって、近代的で機能的な都会の建物は興味深いモチーフであったのでしょう。

《街》を制作していた時、友人の画家、難波田龍起の宛てたはがきに「僕は在来の絵画から足を洗うことに苦労し、現在もまだそうした模索のようなことをやっているので、実現されるにはまだ時間がかかると思うが、自分だけのマチエールがわかってきているので、一生懸命描くだけだといふ心構へです。」と書かれており画家自身の内面の変化がこの頃見て取れます。人間への共感から、「生活者の表現」へ関心が深まり、純粋に絵画性を求め、主調色は多彩になり、青、茶、えんじが多く占めます。イメージを交錯させるモンタージュの手法を野田英夫から、線画はドイツの社会風刺画家ゲオルゲ・グロスから、その硬質ながら透明感のある絵肌は藤田嗣治からそれぞれ影響を受けたといわれます。