蒼社川は、遠く延宝元年(1673)から明治26年(1893)に至る220年間に14回におよぶ堤防の欠壊があり大災害を起こした。このため歴代の藩主は、この川の治水に専念し、宝暦年間(1751-1763)に13年の歳月と莫大な費用を投じて、現堤防を完成したが(沿革誌第3章第1節第3項「治水と宗門堀」の項に詳述)、その後明治26年(1893)10月17日死者、行方不明10名、家屋流失倒壊228戸、同破損215戸、田畑の流失1000ヘクタール、堤防欠壊14箇所という大惨事が起きた。近年においても、たびたび洪水の被害を受けている。
また蒼社川上流の野山は土砂流出防止の抜本的な対策として越智郡日高村外13か町村が組合を結成して計画的な植林を実施してきた。なお、蒼社川は関屋川(中山川の上流)と共に、本県砂防事業の発祥の河川で明治39年(1906)玉川町地内へ谷止工・山腹工を施工したのを始め、その後砂防施設を数多く築造した。
しかし、全体的な河川改修は実施されてなく、災害復旧工事で糊塗している状況で、抜本的な治水対策の樹立が強く要請された。
一方蒼社川沿岸にはこの川により灌漑されている水田が約1300ヘクタールあるが、昭和9年(1934)大旱魃を始めとし、年々の用水不足を溜池の開発及び地下水の揚水により補ってきたが、近年の河床低下による地下水の貯溜源が喪失したこと、人口の増加、産業の発展による都市用水の急速な需要増の水源を地下水に求めた事等により、相互に関連して揚水不能の状況を呈した。また昭和39年(1964)1月、今治市を含む当地区が新産業都市に指定された。
以上のようなことで、治水・利水の両面にわたって蒼社川の開発が急務となり、玉川ダム建設となった。