第1回 品部政夫 氏



第1回めとして、玉川町摺木にお住まいの品部政夫様(大正14年生まれ)をお訪ねしてお話を伺ってきました。

品部さんは、いつもどおりのお人柄そのままのにこやかな笑顔で私たちに応対してくださり、時の経つのも忘れてお話に聞き入ってしまいました。その内容の一片をお知らせします。


問1 定年退職後の暮らしは、どのようにお考えでしたか?

品部さん:
自分が定年を迎えたとき(28年前)の挨拶状に、「花作りに趣味があり、 余生は花を作って過ごしたい」と書いたのを今も思いだしますが、そんなつもりで第二の人生を出発しました。
ちょうどそのころ、玉川町で壮年教室が開設され、その学級長に任命され、活動を始めました。
それと同じころに、社会福祉協議会の給食の配達をボランティアで始め、月2回ずつ、気づいたら17~18年間も続けておりました。ある時は、寝たきりの方のお弁当を枕元までお届けしたこともありますし、またある時は、いくら声をかけても出てこないので中に入ってみると、たいそう具合が悪くなっていて、急いで役場に連絡して救急車を呼んでもらったりしたこともあったんです。そういうことで、配達するだけでなく安否確認にもなっていたように思います。
スタッフ:
いい活動をされていたわけですね。また、老人クラブやスポーツクラブもよく参加されていましたよね。
品部さん:
そうですね。老人クラブの会長もしたり、高齢者スポーツクラブにも参加したりしました。ゲートボールはたいへん苦手でいつも劣等感を味わっていたんですが、勝運があるのか私が出ることによって不思議とチームが勝っていたので皆がよく誘ってくれました。グランドゴルフは今でも好きで「枯れ木も山の賑わい」と思い週に三回くらい楽しんで出ています。

問2 玉川という町についてどんなに感じていますか。

品部さん:
玉川くらい地理的にも、自然環境でも恵まれているところはないと思っています。台風の被害や洪水も少ないし、地盤は花崗岩地帯ですから地震にも強いでしょ。日本中探してもこんな理想的な地域はなかなかないんじゃないでしょうか。

問3 “品部さん”というと『環境作り』を連想する私たちですが、かかわったきっかけや活動への思いをお聞かせください。

品部さん:
退職前から、近所の花作りや土手の菜の花植えなどはしておりました。あのころは部落内の人みんなも出て、一緒にやってくれていましたよ。そのころ玉川近代美術館は地元の人でも入場する人が少なかったのですが、部落の人みんなのチケットを購入して鑑賞し、その後花見をしたりして大いに盛り上がって楽しんだことが思い出されます。
また、中学校の“レッツトライ”という活動で、木工と川柳を教えて欲しいと頼まれて、中学生と一緒に10年ぐらい活動しました。その間に、楢原山やお釈迦山など各所の道しるべを木に彫って製作したんです。その最後に、水ケ峠の道しるべを作りました。
スタッフ:
あの材木なんかはどんなにされたんですか。
品部さん:
木材は、台風のときに倒れた大きな木が捨てられようとしていたのをたまたま見つけて、もらって帰って製材してもらったり、玉川中学校改築の際、階段の板をもらったりして作りました。いろいろなことが次々と連鎖して進んできたと思います。
“水ケ峠トンネル”の看板は、平成9年のトンネル完成時に立てたいと思っていたのですが、いろいろと問題点が浮上して思うようには進まなかったんです。最後は、「あなたが責任をもてば」ということでやっと許可をもらい、最初に思っていたところへ、玉川中学生とともに立てることができ、何とかやり遂げ今に至っています。
その後、そのトンネルの手前の荒れた土地に、地域の人が重機を使ってきれいに整地してくれ、立派な花壇になったのが本当に有難かったです。 平成16年にオリーブの木を植えたのですが、ちょうどこの年に、アテネでオリンピックがあって(日本が今までで一番メダルを多く取った)、その時入賞者にオリーブの冠を頭にかぶせていたのが印象的だったので、これがいいと思って植えたんです。今ではそれが大きく育ってきたので、平成29年の愛媛国体のとき、玉川町でボート競技が行われるので、その時の上位入賞者に、オリーブの冠を作って渡したいというささやかな希望を持っているんですよ。
また、毎年3月17日には、この国道317号線の清掃活動を続けてきました。今年は国道開通15周年を記念して行います。
初めは、ここも行くたびにごみの山だったですね。マンガ本や古タイヤなどびっくりするほど捨てられていましたよ。ところが不思議なことに、このごろはごみも少なくなりました。きれいにしていたらごみは減るんですね。
スタッフ:
次に文化財専門委員としても、いろいろ関わっていらっしゃいましたね。
 
品部さん;
はい。文化財専門委員として万葉の森の管理に当たってきました。平成10年ころから準備を始め、平成14年10月20日に開園しました。この山自体に万葉植物がかなりあり、3分の1くらい(150種類くらい)は在来の植物があったんです。それから200種くらい次々と増やしましたねえ。合併してからはだんだん衰退してきているのが残念で仕方ありません。
あるとき、万葉植物の“すだじい”が倒れかかっているので支柱を立てる願いを申し込んだのですが、役所は、それは危険だから切り倒すといって切ってしまったんです。斜めになっている木にこそいろんな物語ができるのに・・・
スタッフ:
そうですね、品部さんは花壇にも「明日枯れる花にも水をやる心」という立札をたてていらっしゃいますね。品部さんのお心の優しさが伝わってきます。
品部さん:
それでもうれしいこともあったんですよ。近所の人たちと花壇作りをしていて、堆肥を入れたいと思っていたら、通りかかった見ず知らずの人が、菊間町の人だったんですが、それならと車で2~3車も運び込んでくれたりして、そんなふうに人々に支えられて今日まで続けてこられたように思います。

問4 今こうしてボランティアに全力を傾けるようになったそもそものルーツは?

品部さん:
そうですね。戦時中のことになりますが、済州島から南方へ移動することになったのですが、釜山まで来て輸送船がないので、そのまま済州島の守備につきました。そうしてやがて終戦を知ったのは昭和20年の8月16日のことでした。
その後、11月11日に復員することになり、尾道から連絡船に乗り込みました。その一便先に出た復員船が、今治の上浦町の沖まで来て沈没してしまったんです。今治をすぐ目の前にして、ふるさとまであとほんの少しというところで仲間が亡くなっていったんです。それなのに自分はたった一便ちがいで助かった…。それを思うと自分だけの命ではないように思うし、もともと体もあまり丈夫なほうではなかったので、自分も40歳くらいで命を終わるだろうと思っていたんだけど、60歳も越えてもまだ元気だったので、それ以降はボランティアで人のためにという思いが強くなったように思います。そんな思いもあって、今年の年賀状には、「米寿まで 運よく生きた 二等兵」と書いたんですよ。

問5 毎日の生活で心がけていることを教えてください。

品部さん:
今年米寿を迎えました。それでもう自分の体は自分で守らなきゃと思って、このごろでは私も少しずつずるくなってきました。でも、毎日ちょっとした汗をかくようには心がけています。
将来に向けての目標は、平成29年の愛媛県で開催される国民体育大会に向けて、“第72回国民体育大会“の看板を製作し、今年の3月17日にボランティアのみなさんと設置する予定です。
また、オリーブの冠を作ることを考えています。

問6 これからの玉川がどんな風になればよいと思われますか。 

品部さん:
やはり若い指導者が欲しいです。やる気のある人が欲しいですね。合併前はみんな熱心にやってくれていました。6000人分の1のときは一人一人がよかったが、17万人分の1になると一人の力は弱いものです。
また、今まで集めてきた文化財をきちんと維持していって欲しいと思います。

問6 最後に品部さんの座右の銘を・・・

真剣なら智恵が出る
中途半端なら愚痴が出る
いい加減なら言い訳ばかり


まだまだたくさんお話いただいたのですが、ここに載せきれていないのが残念です。これをご覧になられた方の中から、一人でも二人でも品部さんの後継者が出てくださるのを望むばかりです。品部さんほんとうにありがとうございました。今後ともどうかお元気で、益々のご活躍をお祈りいたしております。

スタッフ一同