第2回 渡邉哲弘 氏 (玉川の方言を研究、冊子を出版)



渡邉哲弘氏

新緑のまぶしい4月26日、玉川町長谷にお住まいの渡邉哲弘氏(1936年生まれ)をお訪ねして お話を伺ってきました。約束の時間に少し遅れてしまったスタッフを先生はおだやかな笑顔で迎え てくださいました。そして、インタビューに先立って、早くも方言集「ちがうんかん 玉川弁ぞのもし」 の改訂版ができたことを報告をしてくださいました。


問1 皆さんから「先生」と呼ばれておられるのは、職業柄ですか?

 
渡邉さん:
はい、私は高等学校の教師で、世界史を教えておりました。

問2 方言を手がけたきっかけを教えてください。

渡邉さん:
(座敷机の上に置かれた湯のみを手に取って)これはもらったものか、どこかで買ったものか はっきりしませんが、伊予弁が書いてありますね。「なんぞなもし」「だんだん」「おらぶ」「びんだれ」 ・・・いろいろ書かれていておもしろいなあと思いました。私自身、方言の中で育ってきましたからね。子どものころ、おばあさんが近所の人と話す時に「~のもし」「~のもし」と「のもし」を連発していました。東予は「のーえ」、南予は「なーし」と言いますね。 「だんだん」も調べていくとおもしろい。初めは「だんだんありがとう」だったものが、ありがとうが省 略されて「だんだん」になってきた。Thank you very muchのThank youがなくなってvery muchだけ になったようなものです。
スタッフ:
おもしろいですね。ところで、この湯のみはよく手に入りましたね。
渡邉さん:
飲み屋で手に入れたのかもしれません。時々行っていましたからね。(笑)

問3 「ちがうんかん玉川弁ぞのもし」の改訂版が早くも出版されたのですね。
以前のとは、どんなところが違いますか?

渡邉さん:
そうなんです。意外に早くできました。出版社も急いでくれたようです。以前の本とだいたい同じ内容ですが、改訂版は35ほど新しい言葉を入れました。新しい語句を入れた分、減らしたものもあります。訂正した箇所もあります。
スタッフ:
ホームページの「玉川の方言」には、用例を入れて順次載せていっていますが、改訂版の内容も以前のに照らし合わせて加筆していきたいと思います。改訂版は、いろいろ見直されたんですね。
 
渡邉さん:
そうです。いろいろな方に助言をいただきました。50ページを見てください。これは愛媛新聞に掲載されていた話ですが、県外で「ここ、来んけん!」と言ったら、「ココッ、ココッ」なんて、まるでにわとりのようだと笑われたという話ですが、私は、地域によっていろいろな方言や訛りがあるけれど、この「来んけん」という言葉は、あったかくてすてきな方言だと思います。

問4 方言にかかわる活動への思い入れと、今後どのように活動されるのかお聞かせください。

渡邉さん:
しんどいけど、とても面白いことと思っています。今後は、生活とのつながりを探求してみたいですね。方言は、その地方の生活からできあがったものですからね。
スタッフ:
先生が出合った方言で、これは・・・と思われたものがありますか?
渡邉さん:
おばあさんの言葉ですが「ゆうべは、おどろいたわい。」「朝の3時ごろにおどろいた。」と言うのを聞いて、「ええっ、何にびっくりしたんだろう」と思いましたね。目が覚めたことなんですね。それから、近所のおばあさんをデイサービスの時など車に乗せると「じょうしきお世話になります。」とか言われる。これは、いつもお世話になりますの意味なんですよ。
スタッフ:
朝倉、菊間、玉川とかでも方言の違いはありますか?
渡邉さん:
ありますね。少しずつ違います。一日おきにという意味の「ひしてがいに」という言葉がありますが、朝倉の人は「ひいてがい」と言う。「ひいてはねがい」とも言いますね。
また、子どものころ、蒼社川で遊んでいましたが、「ハヤ」や「ドロ」などの魚の名前も玉川独特のものだと思います。

問5 毎日の生活のことで気にかけておられることがありますか?

渡邉さん:
私の父親が70歳で脳梗塞で倒れ86歳で亡くなりました。母親が苦労して介護しているのを見ておりましたので、辛いものを食べないように気をつけています。私自身も冠状動脈のバイパス手術をしております。食事が薄味なもので、外孫が遊びに来ると「じいちゃんとこのは味がない、おいしくない。」と言うんですよ。(笑)

問6 玉川の町について感じることはありますか?

渡邉さん:
子どものころから住んでいますが、自然が素晴らしいところだと思います。蒼社川を中心にして、温泉あり、ダムあり、人情も厚く住んでいる人もいいですねえ。  

問7 方言以外についても、いろいろお聞かせください。

 
子ども時代
私は1936年2月2日生まれです。2・26事件があった年で、年齢は76才です。(笑) 九和小、九和中、今治西高と進みました。小学校のころの思い出ですが、あのころは、竜岡村・九和村・鈍川村・鴨部村・日高村の5か村で秋口に競技大会をしておりました。私は、6年生の時に高跳びで優勝して、中学校2年生の時にも優勝しましたが、3年生の時には何ももらえませんでした。(笑)
教員時代
教員という職業柄、教えること以外に部活動も担当させられました。自分は中学校3年間軟式野球をしていたので、部活も野球部担当が多く、日曜・祝日は他校との試合にあけくれました。
今治北高時代(昭和59年)にはバトミントン部も担当しました。前任の先生が上手に指導してくれていたおかげで県大会で優勝して全国大会に行きましたが、1回戦で負けました。試合のあと審判をやらされそうになって、ルールもよく知らないのにとずいぶんあわてた経験もあります。結局やらずに済みましたがね。(笑)
旅の思い出
【香港】
大洲高校時代、昭和53年に愛媛県の教職員の団体で中国へ行きました。国交回復してすぐのころで、中国旅行は珍しかった時代でした。香港のホテルでは、カードキーに初めて出会って驚きました。もとはイギリスの植民地だったので、進んでいたんですね。
旅の思い出
【マカオ】
マカオでは、ゲーム(カジノ)もしました。ガイドの孫(ソン)さんが「あちこちに本を読むふりして立っている人がいるけど、スリだから気をつけなさいよ。後ろのポケットに財布を入れないようにね。」と教えてくれました。競犬場もありましたよ。(いわゆる競馬みたいなもので、犬が走る。)
旅の思い出
【広州】
香港から中国本土に渡って、深圳(シンセン)に外国人を取り締まるところがありました。広州の町に入ったら「熱烈歓迎」の旗が掲げてあったので、自分たちを歓迎してくれるのかと喜んでいたら、そうではなく、香港からの出稼ぎ者を歓迎するものだったんです。(笑)

本日は、貴重な時間をいただき、方言への思い入れや楽しい思い出話をお聞かせくださいまして、ありがとうございました。どうかお体に気をつけられてますますご活躍ください。

インタビューの間じゅう、先生のお顔は終始穏やかながら、どの話もユーモアにあふれ思わず引き込まれました。誠実なお人柄の中にも、いろいろなことに興味をもって機知に富み、ヤンチャぶりも発揮される柔軟な生き方が感じられました。地域に伝わる細々とした行事にも積極的に参加され、地元の人との交流を大切にされています。先生がずっと方言に関わってこられたのも「玉川が好き。そこに住んでいる人が好き」の思いが本物だったからでしょう。方言集は、まさに多くの人とのつながりの中からキャッチされた言葉の宝物ですね。 「方言は文化財である」という先生のお考えを忘れないようにしたいと思いながら、縁側に囲碁の道具がさりげなく置かれたご自宅を後にしました。