第19回  四国八十八箇所霊場第五十七番札所 
       栄福寺 住職 白川 密成 氏(38歳)



白川密成氏

2015年の玉川の1番の話題の方と言えば、この方。白川密成さん。地元の人からは「密成さん」と呼ばれて親しまれている。四国八十八箇所霊場第57番札所「栄福寺」住職。38歳の今年、著書『ボクは坊さん。』が映画化され全国公開。その作品には地元今治市玉川町の風景あり、約450名もの地元エキストラの協力あり、まさに今治市玉川町の映画でもあったといえよう。メディアをはじめ全国各地での講演活動など、師走の分刻みのスケジュールの中、白川ご住職には、お時間をとっていただき栄福寺を訪ねた。

スタッフ:
今年は本当に、密成さんの年とも言える年でしたね。
白川住職:
いえいえ、そんなことはないですが、今年は充実した仕事を経験させて頂きました。
スタッフ:
私たちもどうしても、時の人であるご住職のお話を伺わないと今年は終われないと思い、ご無理をお願いしました。まず、少し生い立ちなど教えていただけますか?
白川住職:
僕は1977年に生まれました。生まれてすぐで僕は覚えていませんが、父の仕事の関係で東京に家族で住んでいまして、母親がイラストレーター大橋歩さんのファンだったことから、歩(あゆむ)と名付けられました。
お寺の長女だった母は東京の大学で服飾を勉強しており、父と出会いました。やがて愛媛に戻り、高校教師である父の赴任先だった中島(瀬戸内海の離島)に3年、新居浜、そして玉川と、僕が小学4年の時に玉川の鴨部小学校へきました。新居浜が1学年10クラスぐらいある大きな小学校だったので、1クラスだった鴨部小に転校してきて、「クラス替え」がないのが、うれしかったのを覚えています。その後、玉川中学校へ進みました。
スタッフ:
玉川中学時代はどんな中学生だったのですか?
白川住職:
当時、玉中(玉川中学校)は、木造校舎で、僕が3年生の時に建て替えになりました。3年間軟式テニス部でけっこうひょうきんな生徒でしたね。あるとき、講堂の上に登ったりして、おとなしい先生を困らせてしまったなどというやんちゃなこともしていました(笑)
高校は、東高に行きました。自転車で45分くらいかかるので、軟式テニス部の朝練が早くて時折母に車で乗せて行ってもらっていたら、父が怒っていましたね(笑)父は萩の250キロマラソンで大会新記録で優勝したり、よく走る人で知られていたため、僕が高校在学中はテニス部を4,5回やめようと思った時も周りの先生方もなかなかやめさせてくれませんでした(笑)それで軟式テニスはずっと続けていて、大学に行ってからもテニス部でした。
スタッフ:
大学は高野山大学だとお聞きしていますが・・・・
白川住職:
そうです。高野山大学で密教を学びました。軟式テニスは続けていましたが、結局人がいなくて廃部になってしまいました。あと、フリーペーパーみたいなものを友達と一緒に作ったり、茶道や華道なども女の子はいるかな?と、のぞいてみたりしました(笑)
高野山大学の時に、19歳から20歳の夏休みにお坊さんの密教修業をしたのですが、この頃はけっこう他の友達とかは遊んで楽しい時代ですから、その時期の修業というのは、やはり思い入れがあります。
スタッフ:
高野山大学に進まれたというのは、もうすでにその頃からお坊さんになるという気持ちがあったということですか?
白川住職:
そうですね。実は小学生の頃から、当時住職であった祖父を見ていて、お坊さんって、おもしろそうだなと思ってたんです。人生の中でも「もっとも大きなこと」を考えるのが、お坊さんの領域だという直感、実感がありました。
スタッフ:
それは、ずいぶんと小さい頃からお坊さんになりたいと思ったのですね。
白川住職:
はい。小学校の時の文集が残っているのですが、「本を書いて、お坊さんになって・・・」と書いていて今読むと自分でも驚きます。当時は深く考えてはいませんでしたが、なんとなく、お坊さんというのは、人が生きて死ぬ、このとても大きな哲学的なことに役割として関われるなぁ、しかも生活の中で実践的に、と思いました。お坊さんって、世の中の役割のひとつとして成立しているのがいいなと思っていたんです。
スタッフ:
でも、大学を卒業されて、すぐにお坊さんにならずに、就職されていますよね?
白川住職:
そうです。就活もしました。雑誌を作る仕事がしたくて地元の出版社を受けたりと、何社か受けましたが、結局本屋さんに就職が決まりました。
入社式で、社長がいきなり僕に乾杯の音頭と挨拶をしろと言ってきたんです。「君は明るいから採用したんだから、いろいろと場を盛り上げてくれたまえ」と言われて、あっ、僕はそういう役どころだったのかと気づきました(笑)人が人として世の中でやっていくためには、上の人から見ると、明るいっていうのも大事なことなんだなと。
まあ、このサラリーマン時代に僕が学んだことといえば、やはりお金を稼ぐということの難しさでしたね。生活のためのお金を稼ぐのは、ほんとうに大変だと身にしみました。これは僕にとって、いい経験になったと思います。僧侶は、仕事をする方からお金を頂いて生活をすることがベースにありますからね。
そして、そうこうしているうちに、祖父が末期のガンだということがわかり、数ヶ月で亡くなってしまいました。
スタッフ:
それは映画でも描かれていましたね。
白川住職:
そうですね。映画はノンフィクションの原作とは違い、エンターテイメントとして脚色された部分もありますが、祖父が亡くなったことで、栄福寺を継ぐことになりました。24歳の時でした。
スタッフ:
最初はいくらお寺で育ったとはいえ、お若いということもあるし、戸惑われたのでは?
白川住職:
そうですね。いざ自分が全て引き継ぐとなると想像以上に大変でした。しかし、自分だからできないことがたくさんあるに決まっているのですから、目上のお坊さんがしないことができればな、と思ったんです。檀家さんや人に語りかける時に難しい話だけをするのではなく、本当に自分の感じたこと、仏教の内容の部分や、お彼岸だとかお盆だとか・・・今更ながらのこともできる限り丁寧に、わかる言葉で伝えてみました。そうしていろいろぶつかってみると、「うれしい」と言ってくださる人が出てきたり・・・。
僕は音楽がとても好きで、好きな音楽を聴くと、なんというのかな、胸がいっぱい、という感覚になるのですが、お寺の仕事でも、伝わったなと実感できる場面や人に出会うと、なんだか似たような気持ちになると気づいたんですね。不思議な感覚でした。
スタッフ:
そんな中で本を書くことになったきっかけは?
白川住職:
当時、糸井重里編集長の人気サイトに『ほぼ日刊イトイ新聞』(通称「ほぼ日」)があり、僕はそのファンだったのです。あるとき糸井さんにファンメールを書いて、お坊さん1年生です!文章を書かせてくださいませんか?と書いたら、糸井さんからお返事が来たのです。糸井さんの「ほぼ日」は、当時、とても有名な人から名前なんて全く知られてない人まで、いろいろな人が書き手として参加していました。その「ほぼ日」で「坊さん―57番札所24歳住職7転8起の日々―」の連載を書かせていただくことになりました。
 2008年まで231回連載させていただきました。ほぼ日は1日に120万アクセスとかあるサイトですから、若い方から率直な仏教への興味をメールでいただいたりすることがあって、「ああ、仏教って待たれてるのだな」ということを実感しましたね。「ずっと尼僧さんになるのが夢だった」というメールを頂いたり。「サンフランシスコでコールガールをしていますが、愛読しています。色々、教えてあげますよ」というメールもあったな(笑)。
スタッフ:
本になったのは?
白川住職:
僕は文章を書くことが好きですが、本も大好きなんです。好きなことを続けて、いつかは本を出したいと思っていると、糸井さんの担当編集もされていたミシマ社の社長でもある三島邦弘さんとの出会いがあったんです。僕は生き方とか仕事に惚れると一緒に仕事がしたくなる変なクセがあり、本を出すならミシマ社でと強烈に思いました。連絡をとったら、三島さんが偶然にも、翌日今治に講演で来られることになっていて、栄福寺にも寄ってくれました。で、会ってしばらく雑談した後に、「ミッセイさんは、どんな本を作りたいですか?」と問われました。
スタッフ:
『ボクは坊さん。』の誕生ですね。それでどんな本を作りたいと言ったんですか?
白川住職:
「言葉によって、言葉を超えたい」と伝えました。急に聞かれたので、逆に正直な言葉が出たと思います。言葉には言葉が必然として持つ限界がある。しかしそこを凌駕するような迫力を持った、しかもポップで可愛い本を作りたい。今から考えると、この微妙な線を理解できるのが、まさに三島邦弘という出版人だと思います。僕は本を作ったことはないけれど、作るのならそういう本を作りたいという思いがありました。
そして10年読まれる本を作りたいなと。WEBに連載していたものをまとめたものも1度つくったけれど、三島さんのアドバイスで、頭から文章を書き直し、そこにブッダの言葉や弘法大師の言葉を挿入するというアイデアも自然に浮かびました。出版されると、これはかなり異例のことらしいのですが、全国版の朝日新聞と読売新聞が同じ日に著書インタビューを掲載してくだり、その他にも多くのメディアが取り上げてくださり、結果的に多くの人に読んでいただくことになりました。実は出版後すぐに映画化のお話はいただいていたのですが、その時はすぐにというタイミングではなかった。この度いろいろな機が熟して映画化となりました。映画はまた原作とは違ったかたちで、地元のエキストラ約450名の方々に参加いただいたり、玉川や今治の風景が随所に流れたりして、地域とのつながりもあり、とてもよかったと思います。撮影中はなんだか地元の玉川や今治もお祭りのような雰囲気でしたもんね。
スタッフ:
密成さんは、「書く」ということをとても大切にされている印象を受けますが、それは毎日の生活の中でもですか?
白川住職:
そうですね。とことん“内向き”になれて、おなじぐらい“外向き”になれるということが、書く、出版するということなのでしょうか。性格的にその内と外、「両方」がないと居心地が悪いのですよね。著書の中では、仏教ってお寺や仏壇の中だけにあるのではなく、暮らしの中にも自然に活かせるものなのだということや、弘法大師や釈尊の言葉など伝えられたらいいなと。だから外から見れば、楽しくポップな感じでかかわっているように見えるかも知れないけど、本人はけっこう、内向きになることを大切にしています。それがあってこそ、はじめてわかりやすく伝えられるというか。
 
スタッフ:
普段かなりの読書量のように想像するのですが、今まで読まれた本の中で、特にご自身に影響を与えた1冊ってありますか?
白川住職:
う~ん、それは本当に難しい質問だけど(笑)、河合隼雄さんの『こころの処方箋』でしょうか。河合さんは臨床心理家で、なかなか答えがでないとことについて、答えはないんだと丁寧に書かれている。地方とかコミュニティとか大事だということについても、昔がよかったといっても、そっくりそのまま昔には帰れない。昔の状態をそのまま呼び戻すのではなくて、昔のいいところと、今の葛藤を混じり合わせて、今の時代の形を作り出すしかない。そのあたりを丁寧に書いているから好きですし、今はそういうことを表現している人が少ないのではないでしょうか?比べることはもちろん、僭越すぎてできないですが、少なくても自分自身、これから「書く」機会を与えられるとしたら、そういった「葛藤」を込みで書きたいですし、それはそのまま仕事や生き方にも繋がってくるという話なんだとも思います。
あと、『ボクは坊さん。』と同じミシマ社から出ている内田樹さんの『街場の教育論』も執筆の助けになった本です。一時、自分が本なんてもう書けないなと思ってしまったときに、偶然、本屋で出会って。記憶ですが、その中にたしか、死者に対する態度というのは、亡くなった人がまるでこの場に生きているかのようにふるまうことなのだ、耳を澄ませることだ、ということが書かれていて、これを読んだ時、「あっ、自分がまがりなりにも僧侶として無我夢中でとってきた態度は、間違いではないのかもしれない・・・」と感じて、自分にも「書く」「届ける」ものがあるはずだと感じました。それプラス、その売り場の近くに『みんなのプロレス』という装幀が本当に好きな本が置いてあって、「こんなに本が好きなんだから、書けるだろう」と感じました。今、思い出すと結果的にその本は、『ボクは坊さん。』と同じ寄藤文平さんがデザインした本でした。
こうして僕も現場を持っているわけですが、お葬式や法事の法話で「自分」が何を表現したいか、なんて、考えませんよね(笑)。この場所で、どんなことを求められているか、どんなものなら受け取ってもらえるか、難しい仏教の言葉より、どういう言葉や話なら、聞いてくださるおじいちゃんやおばあちゃんに伝わるか、先ずそれを考えるわけです。もしかしたら、何かを伝えるときって、ほんの少し、1%でも2%でも「自分」を含ませるということって大事だけど、それはその程度でいいのかもしれませんね。
スタッフ:
密成さんが伝えたことで、それを聞いた方が、もう目の前にはいないけど、亡くなった大切な方と対話ができるかもしれませんね。それは会話じゃなくて対話。
白川住職:
対話をするのに、大切なのは話すこととか書くことじゃなくて、「聞く」ことだと思います。世の中に「聞く」ことが苦手な人が多い気がする。しっかりと「聞く」ことができてこそ、精神的な対話が成り立つのだと思います。今まで仏教においても、もしかしたら仏典とか、弘法大師の言葉をうまく伝えられてなかったなと思うことがあります。そこにも、やはり「聞く」態度が求められていると感じます。自分自身がうまくはできていないことですが。
僕は「書く」という方法を使って、じつは「聞く」ということを表現しています。このあたりは今回『ボクは、坊さん。』一連の流れの中でうまく伝えられた部分もあると思う。あっ、でも、ひとりの人間としてはもっともっとやらねばならないことがあって、ヤバイ感じなのですけどね(笑)
スタッフ:
ところで、今日お話しを聞かせていただいたこの建物、「演仏堂(えんぶつどう)」はこれからどう活用されるのでしょうか?
白川住職:
ここは、僕が住職になって栄福寺をやっていくときに、先にお話ししたように全部はがらりと変えないけど、今までとは違うことも取り入れながら、心地よく新しいモノを作っていくというのを表現したいということで、ここを建てたいと思ったのがあり、周りの人に「どんな新しいことが始まるんだろう?」とワクワクしてほしかった。それが建物だと表現しやすいかなと思った。今までは、地元愛媛の物づくりに関わる人たちが集まって「デザイン会議」をしたり、京都大学の先生たちによる文化人類学研究発表を開催し僕も発表したりしました。ここでやりたいことはいくつかあるけれど、中でも絵本の読み聞かせをしたり、地域の人たちとつながりを生む場所にもしたいですね。そしてとても大きな要素として、地震等で伽藍が倒れてしまった時に、この場所が本堂、庫裏などすべてを兼ねた場所になることを想定し、非常に強固にそして何代かにわたって使えるように作ってあります。
スタッフ:
言うなれば、地域や人、さらには仏教とつながっていくための場所でしょうか?
白川住職:
僕は決してニュー仏教とかをやりたいのではなく、いろんなかたちが、ここで生まれるといいな、それが次の世代であってもね。そんな感じですね。
スタッフ:
最後に玉川にのぞむことって、何かあればお話ください。
白川住職:
ひとりの人間がすることには限りはありますが、僕もやっぱりこの場所に育てられた。それって単純に好きだということかもしれないけど、案外他の人も、その土地に育てられたという思いがある人って多いと思う。でも、反面自分にはふるさとがないと思っている人も増えていて・・・。そういう自分にとっての「ふるさと」と思える場所の貴重さって、最近考えるんです。僕もこう見えて人づきあいは苦手な方だけど、この土地だとかお寺だとか、自分のところが持っている素朴な美しさや価値を、折にふれて確認し合うって大切だなと考えてて。
だからなるべくふるさと関連の仕事は断らないで、できる限りやってきたつもりです。さすがに今は、依頼も多くなっていて断ることもありますが。
現実に人口は減っていくわけだけど、「ここって大切な場所だよね」と周りの人たちや仲間たちと確認し続けていれば、落ち着くところへ落ち着いていくんじゃないかと。基本のスタンスとして、「ここいいよね」「そうだよね」というのがあって、みんなで共有しあっていれば、それでいいんじゃないかな。これは個人的な感じ方かも知れないけれど。
スタッフ:
今日は予定の時間が過ぎてしまいましたが、本当にまだまだいくらでも話していたいくらいです。ぜひまた何かご一緒できることがあれば嬉しいです。これからもお忙しいと思いますが、どうか益々のご活躍を。本日はありがとうございました。
 
編集後記:
NPO玉川サイコーも出店させていただいた高野山開創1200年記念の「へんろマルシェ」や、境内に設置された2012年度グッドデザイン賞(日本産業デザイン振興会主催)を受賞したトイレのこととか、まだまだ聞きたいことは山積みでしたが、時間に限りがあり今回はこの辺で(^_^;)
ふるさと玉川は白川ご住職にとっても、大切な場所のようです。またぜひ折にふれて玉川サイコーの活動にもかかわっていただけたらと思います。
四国八十八箇所霊場第五十七番札所 栄福寺 公式WEB 山歌う 
映画「ボクは坊さん。」公式HP

聞き手:NPO法人玉川サイコー 森 智子・阿部友子
カメラマン:第一印刷株式会社 磯野洋介