
 
     山の緑が美しい季節、龍岡木地にお住いの田鍋貢さん、ミツエさんご夫妻をお尋ねしました。
 玉川には「木地」と呼ばれる地名が2カ所あります。「鈍川木地」と「龍岡木地」。いずれも、手を伸ばせば空の雲がつかめそうなほど、玉川で一番天に近いところという感じです。
 龍岡木地は、松山に抜ける水ヶ峠トンネルの手前のあたりになります。蒼社川源流域の森林を生活の場としてきました。廃校になって久しい龍岡小学校木地分校を中心に、昭和30年頃は、約40世帯、200名あまり住んでいましたが、今は、現在は田鍋さんご夫婦を含め3軒しか住んでいません。
 ここにある観音堂の本尊は、十一面観音菩薩で、秘仏となっています。田鍋さんご夫婦は、このお堂を長きにわたり守ってきました。
 どうぞと通された居間には囲炉裏が切られていて、炭がはぜていました。
どうぞと通された居間には囲炉裏が切られていて、炭がはぜていました。 
 
     
  わしは、マンテツで働いとった。捕虜になった時には、もう生きて帰れることはないじゃろうと思とった。ほじゃけど、幸せなことに、帰ってくることができた。
 
わしは、マンテツで働いとった。捕虜になった時には、もう生きて帰れることはないじゃろうと思とった。ほじゃけど、幸せなことに、帰ってくることができた。 
  
  「ほじゃけんじゃろか。ワシが体を悪うして、入院をした時に、白装束の若い男性
が枕元に現れ、必ずよくなり、歩けるようになって、木地に帰れるけん、と言うた。もう歩けるようにはならんかろかと思とったが、しばらくしたら、本当に歩けるようになり、木地に帰ってくることができた。ワシは、あれは誰がなんと言おうと、観音さんじゃったと思うんじゃ。」
 
「ほじゃけんじゃろか。ワシが体を悪うして、入院をした時に、白装束の若い男性
が枕元に現れ、必ずよくなり、歩けるようになって、木地に帰れるけん、と言うた。もう歩けるようにはならんかろかと思とったが、しばらくしたら、本当に歩けるようになり、木地に帰ってくることができた。ワシは、あれは誰がなんと言おうと、観音さんじゃったと思うんじゃ。」
 この話は、「玉川ねっと」で紹介されている紙芝居「白椿と黄金」の話に通じる物語だとスタッフ一同、思いました。
 この話は、「玉川ねっと」で紹介されている紙芝居「白椿と黄金」の話に通じる物語だとスタッフ一同、思いました。 又、ミツエさんが10代のころにお父さんが習わせてくれた三味線も、探すと神棚の奥から出てきて、見せていただきました。とてもいい音色だったと言うので弾いてもらいたかったのですが、70年の歳月には勝てませんでした。
又、ミツエさんが10代のころにお父さんが習わせてくれた三味線も、探すと神棚の奥から出てきて、見せていただきました。とてもいい音色だったと言うので弾いてもらいたかったのですが、70年の歳月には勝てませんでした。 真面目に働いて人様に迷惑をかけず、後ろ指刺されるようなことはせずに、真っ直ぐにいきてほしいんじゃ。ワシは、この木地が好き。観音さんと共におるのが
好き。土喰うても、木地におる、おり続けるのがワシの夢なんじゃ。
 
 真面目に働いて人様に迷惑をかけず、後ろ指刺されるようなことはせずに、真っ直ぐにいきてほしいんじゃ。ワシは、この木地が好き。観音さんと共におるのが
好き。土喰うても、木地におる、おり続けるのがワシの夢なんじゃ。 
 
  
60年に一度のご開帳だという観音堂に手を合わせ、当時は国道の方までこだましていたという鐘をたたかせてくださいました。
そして、坂の上から私たちが見えなくなるまで、手をふってくれた田鍋さんご夫婦。
どうかいつまでもお元気でと願いながら木地を後にしました。