木地は、蒼社川源流域の森林を生活の場としていたようだ。
昭和30年頃には、約40世帯の200人余だったのが、現在は3世帯の5人、過疎を通り越して廃村の一歩手前と言ったところか。
木地分校は、明治20年龍岡上の分校として開校、明治40年に廃止されている。
又昭和27年に生徒数31名、教室は2つで開校、昭和43年に生徒数減少と玉川ダム竣工で、龍岡小学校が九和小学校に併合されたことにより、閉校になっている。生徒が最も多い時期は、昭和33、34年の39名であった。
今年1月の国道317号線、水ヶ峠トンネルの開通により、越智郡では松山に最も近くなった。今後どんな変遷をして行くのだろうか。
案内板によると、“本尊は十一面観世音菩薩で、文中年間(1372年頃)覚理法皇(長慶天皇?)幸門に遷幸ありしとき、祈願所として一宇の堂を建立し、奈良都南円堂より勧請した霊像で、住吉の作と言い伝っており、霊験著しく、諸人の来詣年を経てますます多く、利益を蒙る者は数えきれない。明治41年、現住石丸徳応識より”とある。
本尊は秘仏となっている。
水ヶ峠は標高約七百米。昔から奥道後との交通の要所であり、奈良原さんの参道であった。
林道のトンネルの中には、三十一丁(和気郡菅沢村) ・途中に三十五丁(和気郡下伊代村)、水ヶ峠に文政三年(1820)九河村と刻まれたお地蔵さんが祀られている。松山市日浦には“左奈良原社二里三十丁・右福見観音一里五丁、万延元年(1860)”の道標が残っており、往時は相当賑わっていたことが伺われる。
トンネルの開通で、この峠の存在は忘却の彼方へと押しやられてしまうことだろう。
もっとも、玉川町側は北三方ヶ森への″四国の道″として整備されてはいるが……。
蒼社川全長19.4キロメートル(県下で17番目)で唯一の滝。五丈と名が付けられているからには、以前は高さが五丈(約15メートル)はあったことだろう。
それが上流の国有林の伐採が進み、崖崩のため谷が埋まり、滝の高さも半分ぐらいになったのでは……。
私も昭和30年代に、谷川を五丈ノ滝まで遡ったことがあるが、両岸は自然林の大木が茂り、大きなアメが悠々と泳いでいたこと、五丈ノ滝は水量も多くゴーゴーと勇壮な様が印象に残っている。今はその面影はないが、高繩半島での最大の滝としての威厳は、辛うじて残している。
田鍋貢氏にお聞きする。
青井 三郎