お釈迦さんは、古くから広く親しまれているものの一つではなかろうか。
私も小学生時代(昭和二十四・五年頃)
龍岡鍛治屋から幸門峠を越えておまいりした記憶がある。
″玉川町誌″によると
推古天皇の十三年(六〇五)勅により河野益躬が釈迦堂を開基(伝)。
延暦十二年(七九三)僧空海釈迦堂にて修法念誦す(伝)。
天慶年間(九三〇年頃)平将門の兵火により延焼し衰徴す。
文永五年(一二六八)木像釈迦如来像造立される。仏師薩摩法橋興慶。
元亨二年(一三二二)後醍醐天皇伽藍造営、当山院主に夢窓国師を聘し住せしめてより禅院となる。釈迦堂も初めは
真言宗であったものが禅院となったようである。
元禄十五年(一七〇二)今治三代藩主松平定陣公釈迦堂再建す。
天保十四年(一八四三)本堂を瓦葺に改修。
昭和三十四年(一九五九)本堂を銅板葺きにするとともに大改造す。
とあり、桂木神社の「由緒略記」によれば、平安朝頃は宝積寺・宝蔵寺・宝泉寺・江村寺・極楽寺等七寺院・
十二坊も従え七堂伽藍かおり、壮大に栄えたものであったと想像できる。
しかし天慶の兵火即ち平将門の反乱(九三〇年代の終り頃)にかかり衰徴して、七寺院・十二坊も皆各地へ離散してしまっ
た。現在は桂に宝蔵寺・法界寺の宝積寺が住職の在住する寺院として残り、鍋地の宝林寺・葛谷の宝泉寺は近年の建築である
が住職は常住していない。
今治藩主松平定陳公の再建もあって、江戸時代中期頃からおまいりも盛になり、昭和三十年代半頃までは特に
四月八日の花まつりの日には大変にぎわった。
国・重要文化財として昭和十一年の九月十八日指定された。
仏体の材質はセンダンの木の素地の木造りで、像高一六三・
六cm、台座も同質の素地で造られ、厚さ一一・八cmである。
彫刻は頭部の螺髪は繩状をなしヽ薄物の波状衣文を木の木目を巧みに浮彫りをもって現している。
様式は平安時代に中国の宋から渡来した京都の嵯峨清涼寺の釈迦如来像にならった、
いわゆる清涼寺式の像で、全国で三体しか残ってなく、極めて完全に保存された逸品である。
昭和十四年、解体修理の際、その胎内から文永五年(一二六八)二月四日の日付と大仏師薩摩法橋興慶
と書かれた墨書銘が発見され、鎌倉時代の仏師興慶の作であることが認められた。
昭和十一年九月十八日国宝に指定され、法律改正により昭和二十五年八月二十九日付けで
重要文化財に指定されている。 “玉川町誌”による
青井 三郎