宝篋印塔は、過去現在未来にわたる諸仏の全身舎利を奉蔵するために「宝篋印陀羅尼経」を納めた供養塔で、石造は鎌倉中期から造立された。
玉川町内では、釈迦堂の裏山の山頂と塔身のないビョウソ(廟祖?)さんの宝きょう印塔は、
釈迦如来立像が作られた文永5年(1268)頃の鎌倉期に造立されたものではないだろう
か。
その他光林寺(畑寺)に2基、天神社(竜岡下)に2基、小鴨部と高野にそれぞれ2基づつある。
五輪塔は地・水・火・風・空の五大を宇宙の生成要素と説く仏教思想に基づいて、平安時代に創始されたもので、全国的に
分布している。
五輪塔は装飾をほどこしようがないために、卒直簡明であり、多くが武士層によって造立された。元来は堂の落成や仏像開眼
時の供養を目的としたが、鎌倉期以後は先亡者の供養や墓石として造られるようになった。
なお、室町後期から江戸時代初期に、小型の一石五輪塔が造られ、西日本に多くみられる。
玉川町内でも各地で五輪塔の完全なものやその一部ではないかとみられるもの、一石五輪塔が多くみられる。
桂木神社の祭神は桂木男神・桂木女神・一言主神・清麿神・刈田麿神。配神は月夜見神・神日本盤余彦神・三島十六王子之神・小千足尼益躬公之神霊。
由緒は伊予越智志・伊予風土記・伊予二名洲神祗令鈔・伊予旧紀編等に鎮座奉祀のことが記
載されており、持統4年(689)創祀・寛政元年(1789)に苅田麿神は勧請した。
私も町外の人から、鬼子母神はどこに祀られているのかと聞
かれたことがあり、山本光利氏(与和木)にお聞きすると、桂木神社であり、建替えのとき、奉納された人形等がたくさんで
てきたとのことである。
また、桂木神社の前の社殿の鬼瓦には十六弁の菊の紋が使用されている。
面白いことに、鍋地の四郎明神社と桂の天満神社はなぜか釈迦堂向きに建っており、明らかに他の神様とは向きが反対である。
等々桂木神社は単なる鎮守の神様ではなく、お釈迦様を守るための神様として建立されたのではないだろうか。
また桂木神社は、与和木村・鍋地村・桂村・御馬屋村(狛の片方に刻まれている)の四村の神様でもある。
狛は寛政12年(1800)、常夜燈は寛政13年、釈迦堂の常夜燈は享和元年(1801)
o鍋地側登口の常夜燈は文政8年(1825)「金」・「石」の字も刻まれており、金毘羅さんや石鎚信仰とも結びついているのではなかろうか。幟立は嘉永元年
(1848)の銘がある。
玉川町誌・歴史散歩事典(山川出版社)を参考とし、山本光利氏にお聞きする。 青井三郎