中通と小川の境の山の上、小川の共聴アンテナの立っているあたりらしい。中通りではシロヌシ(城主?)さんとして祀られており、幟立(明治22年)もある。 正岡氏の家系図によると、河野為世から5代後経孝の時代保延年間(1135~40)に正岡郷(現在の北条市)に移り、正岡姓を名のり、更に龍岡中通城主となる。その四代後経純のとき建武年間(1330年代)頃幸門城主となるとある。
つまり幸門城主正岡氏が、幸門城主となる前200年程中通城主であったようだ。
しかも幸門城主になるときは幸門城と戦争があったらしい。寺尾氏宅の東側山麓に千人仏として五輪塔が3基程祀られている。この千人仏は別府峯好氏のお話では幸門城と戦ったときの戦死者をお祀りしているそうです。
玉川町誌によれば、龍岡上(中通)にあって一説には政所城跡ともいう。正岡丹後守の居城とある。
龍岡上中通の町営住宅の入口のところにお地蔵さんが2基祀られている。どんないわれがあるのだろうか?
小川から中通に通じている道でおごの川を渡ったところに工ノキの元に道祖神が祀られている。どの地域も入口に道祖神を祀り、地域内の五穀豊饒と子孫繁栄を祈願したに違いない。
稲田猛氏宅の裏山に馬頭観音が祀られている。
中通の幟立ては、シロヌシさん、山の神さん、稲田猛氏宅の西の山麓にあり、ここのは一本倒れたままになっている。いずれも明治22年に立てられている。
中村の入口の山麓に石折神社がある。社名石には“石折神社”と刻まれている(明治30年)。幟立は天保4年(1833)。地元の人々は妙見さんと言っている。なぜだろうか?
明治末期に一村一社令が出て、地域ごとにあった神社はかなり合祀されたらしい。この石折神社も天神社に合祀されている。
なぜか龍岡下と龍岡上の氏神さんは天神社で、他の地域は全部自分の地域内に氏神さんを持っている。
寺尾幸子氏、別府峯好氏、別府只志氏、森洋氏にお聞きする。
青井 三郎