近藤厚さん宅の西側の孟宗薮の小高い丘にお堂と共に十基近い五輪塔が祀られている。
長宗我部元親の四国征伐で戦って戦死した武将をお祀りしているのではないかとの説もある。
しかし、長宗我部氏が当地方まで攻めて来たようであるが、激戦を交えた話はあまり聞いたことがない。
むしろ、秀吉の四国征伐の際、小早川隆景軍が天正十三年(一五八五)に、桜井の霊仙城、国分城、
今治市日高の老曽山城、玉川町に入って、重茂城、鷹取城、鷹ヶ森城、朝倉村の龍門城、大西町の人遠城、
玉川町の幸門城から立岩村日高山城、横谷村高穴城等と次々と陥として行っている。
そのときは、おそらく玉川町の各地も戦場になり、多くの武士達が戦死したに違いない。
その戦死した人達をその場所場所で、五輪塔や一石五輪などで祀っているのではないだろうか。
大野のゴウシさんや各地にあるお塚さんなどもその類ではないだろうか。
さらに推理をしていけば、五輪塔は武将格、一石五輪は組頭格、自然石は兵卒のものではなかろうか。
お堂を建てたのは明堂さんのはやった頃(昭和九年頃)で、毎年オトウサンをしてお祀りしているそうです。
元切池は、玉川町溜池台帳によると安永七年(一七七八)に造られたもので、
法界寺の新池とともに玉川町では二番目に古い溜池である。
その他の溜池では、新池は明治二九年(一八九六)、古谷池明治三三年(一九〇〇)、
トクボ池大正元年(一九一二)、カラマツ池明治三五年(一九〇二)にそれぞれ造られている。
このように明治以後、溜池が各谷々に造られ、
干害の防止のためにどれだけ多くめ汗が流されたがしのばれ興味深い。
お不動さんは釈迦堂を北側、鍋地側にまいた崖の上に祀られたもので、明堂さんがはやった頃、
それにあやかろうと造られたものらしい。
蓬来さんは釈迦堂山頂の宝篋印塔のすぐそばに祀られており、古事来歴等はわからないが、
鍋地地区で毎年オトウサンをしてお祀りしている。
玉川町誌には“鍋地にあって篠塚伊賀守の居城”とあり、
“愛媛県中世城館跡”(愛媛県教育委員会発行)の地図では、
運動公園の上の山頂付近の鍋地側に印されているが詳細は不明。
玉川町誌を参考とし、徳生重喜氏、井出政信氏、卜部鬼四郎氏にお聞きする。 青井 三郎