幸門城跡は竜岡下の幸門山(大戸山ともいう)の山頂にある。
山頂は南北に細長く削平されており、276.4mの三等三角点は二の丸跡の南側山頂にある。中程に塹壕跡があり、北側山頂が本丸跡で、東側に高さ1.2m、長さ30m、西側に高さ1.8m、長さ6mの石垣が残っている。
現在はスズダケが一面はびこっていて、残念ながら眺望は全くきかない。
明治35年11月には、この二の丸跡で、九和、龍岡小学校合同の運動会をしたとの記録が残っているくらいで、その頃は草刈山で木一本なかったとか。地形からみて、山頂からの眺めは町内の各山城や今治平野、燧灘等々さぞすばらしいものだろう。
スズダケは一昔前までは、家の壁下地などに使われていたのだが……。刈りあけないと人一人通れないほどビッシリと茂っている。里山の利用は忘れられてしまったのだろうか?
わずかに源流グループが立てた案内板がひっそりとさびしげである。
この幸門城の歴史をたどってみると、いろいろなロマンに出会う。何とか幸門城跡を中世の代表的な山城跡として整備できないものだろうか?
幸門城主は正岡氏である。その家系図によると河野為世から、五代後経孝、保延年間(1135〜40)に正岡郷(現在の北条市)に移り、正岡姓を名のる。更に竜岡中通城主となる。
その四代後経純のとき建武年間(1330年代)頃幸門城主となる。つまり鎌倉期の後期から栄え、南北朝までは岡の城と呼ばれていたが、長慶天皇の入山により幸門城と改名されたとのこと。
伊予国の三分の一以上を支配していた河野家18将の内に属し、「予陽郡郷俚諺集」によると、城主は正岡右近太夫通高で尾張守、備後守、修理亮昌介、備後守元安、左衛門太夫経成、丹後守経貞と代々の居城。この代に世嗣がなく河野通春の四男を養子にして正岡出雲守直経といった。そして通綱、右近通高、経政と継ぎ六代目経成の天正5年(1577)付寄進状が仙遊寺文書に残っている。
「河野家分限録」によると、城主河野御大将18騎正岡右近太夫経政、手勢15騎、御旗下組15騎。……と記せられており、玉川近辺の各山城の中心的存在で、最大の城であったようである。
前号で幸門城の始まりを経純の時、建武年間頃(1330年代)と記した。これは「伊像国越智郡幸門山城主、鷹取山城主関係正岡氏系譜」によるものであって、その時点で経純が幸門城を新たに造ったものか。以前からあった幸門城を戦等により占領したものか。又は国替え等によるものかは、はっきりしない。
いずれにしても、幸門城は鎌倉後期から、小早川隆景に滅される天正13年(1585)まで、250年以上にわたって君臨していたことは間違いない。
地図を広げてみると、幸門山から近辺の山城は全て見渡すことができ、のろし等での情報の交換が容易であるなど、中心的存在であったであろうことが納得できる。
「伊予二名集」によると、天正7年(1579)家老鳥生石見守は、鷹ヶ森城主越智駿河守と誄って、正岡右近太夫経政を討ちとって来島氏の旗下に属さんと陰謀を起こしたが、事前に露見し、別宮修理太夫父子、別宮縫殿助に幸門城中で討ち取られた。三人は石見守の宅を囲んだが妻子等は既に鷹ヶ森城に逃げていたので、急いでこれを追い、鬼原で石見守妻子等五人を討ち取ったとのこと。この五大衆の墓は今も鬼原で祀られている。
この経政が幸門城最後の城主となるが、河野氏と深い血縁関係にあり、末期の河野氏の実権を渥っていたようである。
足利幕府最後第15代将軍足利義昭と河野氏第61代通直の孫章子との間に生まれた義通は、足利義昭が追放された後、章子が河野家に身を寄せ、河野通勝として、後に正岡通勝として、経政が幸門城で養育したようである。その墓は、龍岡上の龍岡寺の裏山で、おつかさん(みちかっつあんと言う人もある。)として今も大切に祀られている。
幸門城は経政の時、天正13年(1585)に豊臣秀古の四国征伐によって落城するわけであるが、なぜ秀吉は河野一族を敵視したのであろうか、○足利15代将車義昭の子義通が幸門城で養育されており、足利氏の再興を恐れていたこと。○秀吉が中国征伐を行ったとき、非常に苦戦をしたのは、河野氏が毛利氏に味方して、伊予の水軍が瀬戸内海の制海権を握って、備後鞆の津を中心に海上を一歩も西に進ませなかったこと。○河野通直は毛利元就の孫婿であって、毛利勢と河野氏の合力は非常な脅威となること等が考えられる。
天正13年8月17日(旧暦)鷹ヶ森城勢を一蹴した小早川軍は、一気に鍛治屋から怒涛の如く攻め上り激戦の末、幸門城は落城した。婦女子子供等は御厩、柱方面に逃れさせたものではなかろうか。
なぜ幸門城の落城は8月17日なのか? 御厩の幸門権現のお祭が旧暦の8月17日に行われていたこと等による(品部清隆氏・公報玉川昭和32年12月号)。
玉川町各地に数多くある大小様々な五輪塔は、この時の戦で戦死した武士達をお祀りしたものではないだろうか。
阿部秀雄氏(長谷)、森栄子さん(龍岡上)にお聞きする。
青井 三郎