森家の墓地の孟宗竹の中にひっそりと祀られている。祠が建てられていて、中には多くの石と一石五輪の塔が6基、五輪の塔の部分が散っている。
源平合戦の戦死者が祀られているとか。一説には、長谷の幸門城と大西町境にある重茂城との戦で、ここが戦場となり、
戦死者を祀ったとのこと。又は大野地区にある各種の神様等を合祀したのではないかとの説もある。
一石五輪は室町後期から江戸時代初期に作られたものだそうであることから、
戦死者のお墓を集めて祀っている可能性が高い。
戦前は一時旧暦7月26日に盆踊りが行なわれていたそうです。今も何人かの人達でお祀りをしているそうです。
森昌氏・三島千尋さん・村上君子さん・八木千尋氏・阿部チエさんにお聞きする。
ゴウシさんの西側、山の尾を越えた所に一本の大きな椎の木(目通り約3メートル)がある。
その椎の株元に、「筑前国秋月(現在の福岡県甘木市あたり)黒田甲斐守家来森新一郎定清」と刻まれた立派な碑(お墓?)がある。
この墓地は森昌氏がお守りしていらっしゃるそうですが、その森昌氏にお聞きしても、何もわからないとのこと。
福岡県甘木市あたりから、黒田甲斐守の家来の森新一郎定清か移住して来て、大野の森家の先祖となったのだろうか?。
なぞのままである。椎の樹齢が推定できれば、年代は推測できるかもしれない。
桑原進氏(三反地・森昌氏)にお聞きする。
村上君子さんに案内していただいたとき、驚いた。瓦製の小型小祠(○龕)を見たとき、屋根の棟の部分に×印が刻まれているではないか。
これは十字紋(クルス紋)ひょっとしたらキリシタンかもしれない。阿部チエさんにお聞きすると、大野の一阿部家六軒がお祀りしているもので、「何でも非常につらい思
いをして死んだ人をお祀りしている。」との言伝えがあるそうです。
玉川町にはキリシタン碑ではないかと言われている安山岩製?の碑が多く、31基以上も各地に散らばっている(阿部秀雄先生(長谷)の調査による。)
事実から推測しても、キリシタン信仰に大いに関係かおりそうである。もしそうであったら大発見かもしれない。
「犬も歩けば棒にあたる」のとおり、現地を歩いて、地域の人達にお聞するると、'次から次へと面白い発見がある。
阿部チエさん、阿部マサミさんにお聞きする。
青井 三郎