終戦の年、昭和20年5月19日、龍岡上ハナビラ谷に神風特攻機が墜落。特攻隊員2人が死亡、1人が重症。
特攻機は零式三座水上偵察機で、沖繩方面へ出撃のため、香川県詫間基地を出発し、鹿児島県指宿基地へ向ったが、悪天候で僚機2機とともに詫間基地へ引き返す途中、霧や重い爆装により山腹に衡突し墜落した。
現地には「特攻隊員殉職の地」と刻まれ、左右に2人の名前のある小さな石造りの慰霊碑が建てられている。この碑は昭和41年に、旧海軍出身者で組織する今治海桜会の有志と玉川町により建てられた。
死亡者は、川崎圭祐小尉(川崎市出身・22歳・東京大学法学部在学中に学徒出陣)・箕内澄夫士官候補生(大阪市出身・22歳・早稲田大学法科在学中に学徒出陣)。生存者は佐藤肇一飛曹(17歳)。
海軍の神風特別攻撃隊が生まれたのは、敗戦の濃い昭和19年10月であった。最初の出撃は10月25日で、米護衛空母セント・ローが沈没、同カリニン・ベイが大破炎上し、艦載機の損失は128機と大戦果をあげたのに気を良くしたのか、恒常化し、やがて陸軍機も加わって終戦の当日まで続いている。
水上偵察機を特攻に参加させたのは、昭和20年2月からである。水上偵察機は、本来偵察を目的として設計されたスピードの遅い水上機で、最高時速276kmで、戦闘機の半分以下。その上800kgもある大型爆弾を装備して、しかも3人も塔乗して、敵の集中攻撃をあびるであろう中を特攻機として出撃するのである……。
飛行機の方が人間の命より大切にされた。丘隊は一銭五厘(当時のはがきの値段)でいくらでも集まるとの人命軽視、使い捨ての思想が、そのまま特攻思想になり、さらには水上偵察機まで全機投入することになる。
1機にわざわざ3人も乗せて体当たりをさせることは、破滅に向って一直線に突進する日本を象徴しているかのようである。ただ電信席に1人余計に塔乗させたのは戦果を知る目的があったようだ。
このように有能な若者を大勢戦死させた戦争。後に残された遺族の方々の涙々。二度と起してはならない。
戦死された方々の遺族と龍岡中村地区の皆さんで、平成5年の10月に50周年の法要が営まれた。
その後は参る人もなく、深い森の中に埋没されたままになっている。
我国の現代史をみると、この大平洋戦争と言い、バブルに踊らされ、バブルが弾け莫大な損失を出した住専問題等々狂気の沙汰としか言いようのない事象が続発している。
もうそろそろ、私達は金に惑わされることなく、最も大切な財産は何か、何を子孫に残すべきか真剣に考える時期にきているのではなかろうか。
また、五輪塔や宝篋印塔、隠れキリシタン碑などの石像物は玉川町各地に数多く点在しているが、これら石像物一つ一つには、歴史と人々の死様等が秘められている。本当に大切な文化財ではなかろうか。
「今治手帖」1994夏号、帰らざる翼(吉村信男著)参照。森洋氏にお聞きする。
青井 三郎