隠れキリシタン碑のある場所は、力石別府高雄氏旧家敷の上に、画像石碑2基と教会石碑5基。この並び方に信仰上何らかの意味があるのだろうか。龍岡寺の歴代の住職が祀られている墓石の傍に教会石碑一基。前号で紹介したオツカさんの中に三基(頭の部分で画像石碑か教会石碑か判明しない)。その上の墓地の中に教会石碑が1基。マリア像ではないかと言われている石碑1基。この石像は地蔵さんとも異なり、ある独特の雰囲気を醸し出している。森虎一氏宅の上の墓地上の森洋氏の山林の中に画像石碑が1基ある。
隠れキリシタン碑には二種類ある。その一つは、図のように人の顔を線刻したもので、キリスト、又はマリア、あるいはバテレン(宣教師)の顔ではないかと言われている。もう一つは、戦国時代から下級武士の墓ではないかと言われている一石五輪塔の変形したもので、教会の塔を象っており、真中に四角に刻り込まれているのは教会の窓ではないかと言われている。
このキリシタン碑はなぞだらけ、探れば探る程、なぞが深まるばかりである。
(その1)
どこで造ったのだろうか。材質は安山岩とも、凝灰岩製とも言われている。どちらにしても玉川町では産出しない。どこかで造ったものを持ってきたのだろう。どこで造ったものだろうか。
(その2)
いつ頃?隠れキリシタン碑であるとの確証はない。諸説あるが、隠れキリシタン碑が有力らしい。
もしそうだとしたら、日本にキリスト教が伝わったのは、天文18年(1549)ザビエルの来日により始まる。伊予に伝わったのは永禄2年(1559)
宣教師ガルパル・ヴィレラが風待ちのため堀江港に寄ったときである。河野家はもちろん、その18将の1人であった幸門城主正岡氏も帰依していたようである。天正18年(1585)秀吉の四国征伐により、小早川隆景軍により、河野家の出城はことごとく落城しているが、この小早川隆景はキリシタンに理解があったらしい。
このキリシタン碑の分布をみると、松山藩であった北条市に多く、菊間町90基以上、大西町4基(いずれも画像石碑)、今治市宅間に4基(画像石碑のみ)、波方町2基(画像石碑のみ)。今治藩である玉川町にはこの龍岡を中心に30基以上、最北部は今治市高橋の観音堂に教会石碑が1基ある。
このことから、私は江戸時代に入る前に、北条から温戸峠を越えて入ってきて、蒼社川沿いに伝わったものではなかろうかと推測している。
(その3)
どんな祀られ方をしたのであろうか。ある場所等を分類してみると、
○ 力石のように画像石碑と教会石碑を並べてある。この並べ方に特別な意味があるのだろうか。
○ 住職や庄家の墓地の近くに祀られている。
○ 田の畔や山林の中、河原等にひっそりと祀られている。
○ 画像石碑と教会石碑の使い分け、祀り方はどのような違いがあったのだろうか。
等々なぞだらけ。でも幸門城主正岡氏と何らかの関係があったのではなかろうか。
玉川町誌を参考にし、別府高雄氏、渡部自弘氏、森洋氏にお聞きする。
青井 三郎