なぜか妙見前には隠れキリシタン碑が多い。
キリスト像ではないかと言われている人の顔を描いた石碑が2基。
1基は玉川ダム水没のため、山崎家の墓と共に中村の墓地に移され祀られている。
もう1基は小川の無縁墓の中央に祀られている。この無縁墓は玉川ダム水没地域の墓を集めたものとのことであり、この石碑がどこに祀られていたものか興味がもたれる。
教会の塔を型取ったのではないかと言われている四角の教会石碑が3基。そのうち2基は羽藤耕一氏宅に2基。
1基は羽藤家の山で、もう1基は岩成の古い墓地で発見されたものとのこと。
もう1基は中谷の阿部文孝氏の杉林の中で発見され、コレラ墓で恐ろしいものだと言い伝えられてきたとのこと。
キリスト教が日本に伝わったのは天文18年(1549)ザビエルとのこと。
伊予に初めて宣教師が来たのは、永禄2年(1559)ポルトガル人宣教師ガスパル・ヴィイラが松山市堀江に、豊後(大分県)より京都への途上、風波に妨げられ風待ちのため寄港したときと言われている。
それから高繩半島の北条市、菊間町、大西町、波方町と広がって行ったものだろう。
この種の石碑が残っているのは日本でも、この高繩半島だけとか?
キリシタン碑にまつわる言い伝え等は全然残ってなく、全くの謎に包まれたままである。
玉川町には、このキリシタン碑が多く30基余分布しており、興味が引かれる。祀られている場所を地図上に表し、祀られ方等を詳細に分類してみると、謎の手懸が浮かんでくるかもしれない。
妙見前岩成は妙見前入口の谷を西へ入り込んだ所で、現在人は住んでいない。この岩成は、最盛期には田は5町5段(約5・5ヘクタール)、人家も20軒以上あったとか。ひめみや(姫宮)さんが祀られていたが、今は天神社へ合祀したとのこと。
白石秋良氏の旧宅の裏山には幸門城の家来ではないかと言われている正岡氏(文字が判読できない)の石碑も残っており、その付近には、丸石の墓が点在しているとのことである。
幸門城にまつわる人達が開墾し住んでいたのかもしれない。
妙見前集会所の南側の山を300メートル程入った所の岩に、お不動さんが刻まれている。このお不動さんを開いたのは無相上人で、お堂の中には無相上人和讃と無相上人歴が壁に掛けられている。
またこのお堂には、観世音菩薩と薬師如来も祀られている。
ダム水没のため現在地へ移転している。
玉川町には妙見さん信仰が多い。隠れキリシタンともなんらかの関係かおるのかもしれないとのこと。
白石義秋氏、阿部義文氏、羽藤耕一氏にお聞きする。
青井 三郎