天満神社は、釈迦堂の方を向いていて、狛犬は昭和55年、注連石は昭和40年、本
殿は昭和54年の改築といずれも戦後に造られたものである。
何故か、この天満神社は玉川町誌に載っていなくて、この神社の写真が桂木神社として載っている。推測にす
ぎないが、明治時代神仏分離令が布告され、一村一社制が徹底されたため、桂村は桂木神社とされたので、天満
神社は格下げされ、戦後復活されたものではなかろうか。
宝蔵寺は永平寺(福井県永平寺町)を本山とする曹洞宗である。今治市室屋町にある大雄寺から別れたものらしく、過去帳
によると大雄寺は文明5年(1473)に開山。大雄寺11世嘯室宗虎大和尚が宝蔵寺他多くの寺を開山し、万治3年(16
60)に入定。宝蔵寺5世が再中興し、伽藍を新建立、寛政8年(1796)とある。又最初
の記載は正保2年(1645)である。
丁石の銘にある「従是壱丁宝蔵寺」宝暦2年(1752)から、宝蔵寺と宝林寺はもともと釈迦堂近くにあったものが、い
つ頃現在の所に移ったものであろうか。
大胆な推測が許されるのならば、宝蔵寺は釈迦堂の七伽藍の一寺として栄えたが、天平の戦禍で哀退していたものを正保2
年(1645)頃、曹洞宗として再建され、寛政8年(1796)頃現在地に移り、伽藍を建立したのではなかろうか。
宝蔵寺が釈迦堂を管理するようになったのは、釈迦如来立像が国宝に指定された昭和11年からだそうである。
現在の庫裏は昭和初期、本堂は昭和20年頃の建築だそうである。
瀬尾山城は、玉川町誌によると「桂、現宝蔵寺裏山にある。近下に釈迦堂桂木神社があり、南北朝時代釈迦堂の鎮守として
大和の葛城山より勧請持統4年(689頃)建設した。城主、1代肥前守長野通由居城、後大和守通義と改名、北条市庄府鷹
平山城に移り、高繩城を守城する。2代四郎左衛門家康、3代長野若狭介通保、河野家旗下。」とある。
一方、「愛媛県中世城館跡」(愛媛県教育委員会発行)によると釈迦堂の裏山になっている。
〜隠れキリシタン石〜
一石五輪塔から変型したものではなかろうか。四角柱で、頭が尖っており窓のような四角のくぼみもあり、あたかも教会
のようなので「教会石」ともいわれている。
材質は、凝灰石とも安山岩とも言われているが、いずれにし
ても近郊で造られたものではなさそうである。
どこで、誰が、何を祀るため
に造られたものだろうか。
桂集会所の上にある西坂家の墓地と山本ヤチ子さんの屋敷にある。
釈迦堂登山口のお堂やきつい坂を登ったところの左の畑の中にある五輪塔。鴨川鹿好氏の下側山際に祀られている地蔵さん等々、
桂にはそこここに多くの石造物があり、祀られている。
きっとそれぞれに伝説や民話、言い伝え等が残っているのではないだろうか。これらの伝説等を集めて、それぞれの石造物と
あわせて見ると、桂の歴史も少しは浮かんでくるのではないだろうか。
里野哲眼氏にお聞きする。
桂の中央部に、こんもりと茂ったところがあり、鴨川鹿好氏に案内していただいた。鴨川幸義氏の庭先にカシ
ワ(この地方では珍しい)やヤブツバキ等の大木に囲まれて、オツカさんとして祀られている。それは6基の立
派な五輪塔。これだけ風格のある立派な五輪塔は玉川町でも第一級のものではなかろうか。
鴨川ふみ子さんのお話では、幸門城の武士で戦死した武将達を祀っているとのこと。
昭和60年頃までは、電燈もつけ、賑やかにお祀りをしていたそうである。
その近くの畑や道端等3か所からも、一石五輪とみられる石造物も見つかった。
桂を中心に広く五輪塔や一石五輪塔が散在しているが、これらは、天正13年(1585)に豊臣秀吉の
四国征伐で小早川隆景軍と戦っ
て戦死した人達を祀ったものではなかろうか?。つまり、五輪塔は武将格、一石五輪塔は組頭格、石は足軽格
と推則できる。
桂と御厩は幸門城と共に繁栄してきたのではなかろうか。
青井 三郎