お地蔵さんは府中(旧今治藩内)八十ハヶ所第六十番札所で、
地蔵菩薩と弘法大師をお祀りしている。
地蔵菩薩は錫杖を持った立像で、木造製のうえに何かを塗っているようでもあり、
肌の様子から陶器製のようでもある。
いつ頃、誰が作ったものだろうか。
お顔と言い、着物の模様も緻密で、深い色合をしており美しい。
八月二十三日(以前は旧七月二十三日だった)に盆踊りなど
をして盛大にお祀りしているそうです。
以前は、青年団で手作りの花火を打上げていたが、明治二十二年頃の事、
その打上げ花火が
茅葺きの屋根に落ちてきてささり、火事になった事があったそうで、
それからはこの境内からではなく、ほかの場所から打ち上げたそうです。
昭和四十五・六年頃までは、堂守さんかおり、最後は乃万はるみさんで、
故前医王寺住職のお母さんだったそうです。
年間一戸当たり米一升・麦一升づつ(全体でそれぞれ約六斗づつとなる)出し合っていたそうです。
このお地蔵さんは中村の医王寺の分院となっており、今でも施餓鬼等出張サービスで与和木の
檀家の皆さんの便宜をはかっているそうです。
境内には珍しい石でできた日露戦争の忠魂碑がある。
また入口には、ヒイラギの古木があり、葉には刺がなく、滑らかな楕円形で、全く他の木と見間違えた。
株元の若芽は葉に刺があったので、なるほどヒイラギと判明した。
当社は天平年間(七二九〜七四五)に河野氏によって創建されたもので、
四郎大明神とも城大明神とも呼ばれていたが、慶長九年(一六〇四)に三嶋神社と改められたとの事。
しかしなぜか安政五年(一八五八)にで
きた鳥居は“四郎大明神”と刻まれている。
石造物をみると、入口の幟立は安政六年(一八五九)、狛犬は大正六年(一九一五)、
三嶋神社と刻んだ社名石は明治三四年(一九〇一)、常夜燈は文化六年(一八○六)、金比羅さんのそれは
明治四年(一八七一)、注連石は明治三五年(一九〇二)と比較的新しい。
明治初期、一村一神社にしなければならないとの事で、上組の古三嶋神社、中組の三谷神社、
下組の加茂田神社も合祀しているそうです。
境内は約四〇七㎡で、モッコク(目通り一〇三cm)、シャシャンボ(一一〇cm)、
アセビ(六〇cm)と樹齢は百年以上はたっている。
石段の両脇から社殿の周囲には
アラカシ、スギ、ヒノキ、ソヨウゴ、カエデ、ヤマモモ等の高木が茂っている。
社殿は昭和五六年(一九ハ一)に建替えられたものである。
広報たまがわ“鎮守の森”、浮穴政成著を参考とし、山本光利氏、山本肇氏、近藤篤氏にお聞きする。