明堂さんの本家は、もちろん大西町山之内・重茂さんの峠を少し下った所にあり、
本尊は聖観世音菩薩をまつっている。
堂の起源は延元元年(一三三六)後醍醐天皇の皇子尊真親王が大
西町で薧去され、親王の冥福を祈り、廟堂を建て聖観世音菩薩をまつったと伝えられている。
また明堂は廟堂より転化したといわれている。
弘化元年(一八四四)
山桃樹下より宝篋印塔の発掘安置により霊験あらたかになり、数年間非常にはっこうしたとの事である。
昭和八年(一九三三)から数年間再度はっこうして、大井浜に船が続々と着き、
そこから約五㎞の道程がおまいりの人々で引きも切らなかった程だったとの事。
明堂さんのはっこうのおかげは本家だけに留まらなかった。
明堂さんの奥の院と言う事で、
重茂山へも足を伸しおまいりする人々も多くなった。
そこで、与和木の知恵者は考えた。
三嶋神社の裏山にあった荒神社の祠を解体し、重茂山の一番高い所の
与和木分へ運び、一夜にして建立したそうです。
そこからあがったおさい銭は当時三百円にもなったそうです。
このおさい銭で、重茂山の祠の建替えと一番奥の小窪池の
奥約五百米の所に明堂さんを建立したとの事。
この明堂さんの落成当時、昭和十年三月頃に電燈を引いていた。
現在はもちろん電燈はなく、わずかにそのこん跡が残っているのみ。
おさい銭の三百円、当時お米は一俵十円程、三十俵分となり、現在では六十万円程になる。
一方、当時日当一円は高給だったそうです。
現在日当一万円として三百万円。小さいとは言え神社二つも建てる程の価値…。
奥の院のおさい銭でさえ、それだけあったのだから、本家の方は…………。
明堂さんのはっ
こうがいかにすざまじいものであったか……。
当時与和木から、大西町脇へ瓦焼きの松材を運ぶのに朝暗いうちに通っておかないと、昼間は通れなかったとの事。
また与和木からおまいりする人も多く、結構店が繁盛していたようである。
この明堂さんにまつわるいろいろなお話を聞くにつけ、人間の性を嫌と言う程思い知らされ、身につまされる思がした。
なお、明堂さんのはっこうは、
六十年ごと又は九十年ごととも言われているようであるが、六十年ごとだと現在もうはっこうしている頃である。
九十年ごととすれば、平成三十五・六年頃となる。期待したいものである。
与和木上組の人々は、現在も毎月十七日におまいりして、明堂さんをおまつりしているそうです。
「歩こうふるさとの歴史を訪ねて」大西町教友会を参考とし、山本光利氏・山本肇氏・近藤篤氏にお聞きする。
青井 三郎