29回にわたっての拙稿を読んでいただき深謝します。
私も書けるところまでとの軽い気持で始めたが、各地を探索したり、皆様方のお話を聞いたりしているうちに、
玉川町はすばらしい所ではないかと、改めて認識をしなおした次第です。まさに″燈台元暗し″の
一言に尽きる。特に印象に残っているところを列記してみよう。
神門の両側にある左右大臣の人形の大きさ、常夜燈の多さ(15基で県下でも6社の仲間入りをするそうです。) 、石造物の寄進者の多さ、その広範の広さ、和霊さんへの立派な道標等々、いかに和霊さんが繁盛していたかが偲ばれる。
お釈迦さんの歴史は古く、国指定重要文化財の釈迦如来立像もさることながら、裏山の森も貴重な存在ではなかろうか。
樹木に名札をつけ、学習の森にすると、ハイキングにうってつけの所になると思う。
特に丁石の銘から、宝暦年間(1750年)頃に大阪方面からもお参りがあった事実。
摺木の新池の詳細な工事記録が残っていることから、これら溜池を造ることは、多くの人々の汗と知恵の結晶である。その お陰で、一昨年のひどい干害ものりきることができたこと。
お釈迦さん周辺の宝篋印塔の立派さ。五輪塔の数の多さ。 五輪塔が武士の墓であるならば、各地区にまとまって五輪塔が祀られていることから、大きな戦があったのだろう。だとす れば、いつの戦だろうか。天正13年の豊臣秀吉の四国征伐の時の戦死者だろうか。
宝積寺の大般若経から南朝の年号「文中」とか「天授」が書かれていることから、当時少数派の南朝側
に立っていることは興味深い。
各地区にお堂があるが、これらのお堂は、地区の集会場や寺小屋として教育の場に使われていたらしい。
以上のことから、昔は、西日本各地から和霊さんやお釈迦さんにお参りが多くあり、情報の発進基地的役割を果たしていた
のではないだろうか。これら文化財を掘り起こすことにより、玉川町の活成化につながるヒントが得られるのではなかろうか。
私達が習った日本の歴史では、江戸時代は、封建制で農民は特に貧しくてみじめな生活を強い
られていたとの印象を受けていたが、江戸時代後期ともなると、お祭や縁日にほうぼうにお参りするなど交流が盛んに行われ
ている。しかも、お伊勢さん、金毘羅さんや宮島さん、石鎚さん等講を作って広い範囲であったこと。
玉川町でも相当昔から堂主等が先生になり教育がなされていたようである。
等々興味深いことが多く浮か
びあがってきた。
取材等にご協力いただいた方々に厚くお札申し上げますと共に、まだまだ文化財は多く埋もれていることでしょう。
その情報をご一報いただければ幸です。
青井 三郎