府中第六十番札所のお地蔵さんの下のコンクリート壁に、
お地蔵さんが祀られている。
現在は立派な二車線の道路になっているが、
旧道は崖が迫り出していたため、交通の難所となっており、
怪我人等が多く出たので、通行人の安全を祈って、
お地蔵さんが祀られたとの事で、現在でも地主さんがお祀りしているそうです。
与和木の土地は砂地で、水持
ちが悪るく米ができにくかったとの事。
御厩や桂、鍋地の方が土地が肥沃であったため、奥の方が先に開拓され、
与和木が一番後になったのだそうです。
したがって、品部家は御厩、山本家は桂、近藤家は鍋地、門田家は鈍川木地から
それぞれ移住してきたのだそうです。
与和木の主な溜池の造られた年代は、玉川町溜池台帳によると、
長池が寛文六年(一六六六)、小窪池は明治三一年(一八九八)、
峠池は明治二三年(一八九〇)、治城池が明治二二年(一八八九)である。
特に長池は玉川町で最も古く造られた溜池である(峠池の方が古いのではないかとの説もある)。
これらの溜池は、現在では機械力で比較的簡単に造れるかもしれないが、
昔は全くの人力にたよるほかなく大事業であった事だろう。
こうした昔からの人々の知恵と汗の結晶の蓄積のお陰で、今年の様な六十年又は百年に一度と
言われるような猛暑で雨の少ない夏でも、無事乗り切る事ができた事。
早稲はむしろ今までにないような大豊作であった事等、私達はもっともっと昔から
の遺産に感謝しなければならないのではなかろうか。
重茂山は双児峰で、西側の山頂を大西町と玉川町の境界線が通っている。
この大西町側はふるさとふれあいの森として整備されており、
桜が大きくなっていて、春は見事である。
それに眺望も良く、宮崎半島から斎灘の眺めは天下一品である。
この山頂には三つの祠がある。
即ち、山之内、宮脇、与和木の祠が、それぞれ自分の部落向きに建てられ、鎮座している。
又ここは中世の城跡でもある。
大西町側には岡部十郎、玉川町側は高田左衛門進の居城があり、
天正十三年(一五八五)豊臣秀吉の四国征伐の先兵となった小早川隆景軍の攻撃にあえなく落城した。
それにまつわる伝説は多く残されている。
乗峰の山頂に三等三角点があり、二九四・五mはこちらの峰の高さである。
この南側の麓は三島地で大山積(なぜか「祇」ではない)神社が祀られている。
その上のテレビのアンテナが建られた所は大山と言われ、二畝程の広場になっているとの事。
三角点のある所は宝剣岳と言われているそうです。
近藤篤氏にお聞きする。
青井 三郎