碑文(裏面)は
今治市と農民にとり、歴史的事業であった玉川ダムと関連水利施設の完成を記念にこの碑を建てる。
母なる川蒼社川は1100ヘクタールに及ぶ水田を讙漑し、又伏流水口量7万屯を供給して来た。
この貴重な讙漑用水を守るため農民は古くから多大の犠牲を払って来た。
一方専ら伏流水に依存して来た都市用水は、昭和30年代後半より給水人口の増加と生活高度化に依る
消費量の増大又産業の伸展に伴う工業用水の倍増に答える一方地盤沈下に依る地下水汚染に伴う取水量の減少にも対処する為
ダム貯水方式の新規水資源開発が市政の重要課題となり、昭和41年玉川ダムは着工の運びとなった。
ここに於て農業用水上水工業用水の新たな調整が大間題となり、
関係農民は昭和41年8月玉川ダム水利対策協 議会を組織し、旧村単位に代表者を選出、会長に矢内原猛を選出した。
爾来昭和45年12月愛媛県知事今治市長と本協議会長の3者協定による妥結までの5年間協議会は水利権の擁護、上水工水との調整につき一貫して
農民の総意と叡知を結集するとともに、
東京農大の佐藤俊郎博士等学者専門家の助言と指導を得て新たな水利慣行への科学的認識と解決すべき課題に確信をもって運動を進め交渉に当った。
一方市・市議会さらに県当局も農民側の要望を理解し話し合いの中で円満な解決を見た。
この中で特筆すべきは市と水利権者の努力により旧来の水利権を全面的に解消、
これを蒼社川土地改良区に統合し、新統合堰を心に近代的な水利慣行を打立て水利施設の維持管理費を市負担としたのは全国的にも画期的なことであった。
昭和53年1月新しい許可水利権が確立すると同時に既存の井堰の存続協定が締結され、
不特定農業用水180万屯がダム容量の中に確保された。
又統合堰以下水利施設も県市の努力により17億の巨費と13年の歳月をかけ昭和58年に完成した。
水に苦しんだ農民の多年の念願が結実し安定した水を確保して地域農業発展の基礎が整備された喜びは一しおのものがある。
この事業の完成に注がれた関係当局の熱意と長期にわたりこの運動にささげられた農民の努力と成果は
永久に語り継がるべきものであり、ここに記念碑を建て後世に残すものである。
昭和60年1月吉日
表面は矢内原猛書、裏面は田坂修竹書である。
蒼社川の歴史は、多大の田畑や家屋を流した氾濫と、
干害で農民同志の血と血で洗うような水争いの繰返しであ ったと言ても過言ではない。
昭和45年玉川ダムの完成により、人々の悲願であった氾濫と干害はほぼ防止された。
これで蒼社川の目に見える形での治水に成功したと言える。
今後に残された最も大切な課題は、目に見えない形の水質の保全ではなかろうか。
この水質の保全、即ち蒼杜川の清流の保全は、住民一人ひとりが、水に関心をもち、お互いに連携をとりながら次のこと弛まず実行して行くことであると思う。
○ 生活雑廃水等の浄化。簡易下水装置を含む下水道の完全普及。
○ 緑の貯蓄政策。森林の手入れの徹底と育成、特にブナ林等落葉樹林の育成。
○ 産業廃棄物の不法投棄の防止の徹底。
○ ゴミやたばこの吸い殼、空缶等のポイ投げ防止の徹底。もし目についたら積極的に拾う運動の展開
○ 農薬等は極力避ける。
等々、一人ひとりが毎日地道に、できることから実行して、はじめて水質の保全が可能になるのではなかろうか。
青井三郎