和霊神社の東側にある山の山頂にあって″玉川町誌″には「麻呂山城ともいい櫓があった。
城主越智駿河守行員、弓馬の達人で和歌を好み書をよくした信義の人。法名法界寺殿前刑部大円貞大禅定門。」とある。
一方、品部清隆氏は″公報玉川、昭和32年8月1日号″の玉川村郷土史(3)で
「丸山城は南北朝時代久幾田氏の居城で、瀬尾山城主長野氏と共に河野家の柱石であった。
後風早郡庄府村(今の北条市庄府)鷹手城へ長野通義と共に移ったので、今も北条市には久幾田姓が残っている」と記されている。
八尋勇さんのお話によると、昭和21年頃、丸山の北斜面を開墾していると、
黒色の素焼の土器がたくさん出てきて、その形も、水差や瓶等いろいろあったそうです。
その土器類は今は散らばってしまい、時代等を測定することもできない状況で非常に残念です。
丸山に登ってみると、南斜面はナラやクヌギ等の雑木が大きくなっており、歩いて気持良い林となっている。
山頂からは、今治や燧灘方面の眺めがすばらしく、櫓があったとのことも納得できる。
木林市場への道路改修工事中、組合せ式箱形石棺が発見され、現在は玉川町総合公園に復元されている。
6枚の花崗岩でできており、大きさ内法奥行180cm、幅94cm、深さ74cm、花崗岩はいずれもほとんど加工されていない自然石で、
側壁、床石、天井石はいずれも1トン以上ある。内部にぬられた赤色顔料(ベンガラ)が天井石にだけ残存している(案内板による)。
いつの時代か確定することはできないが、古墳時代(4世紀から7世紀)相当栄えた豪族が住んでいたことは伺える。
残念なのは、手がかりになる伝説等が残っていないことです。
碑文(裏面)には
翁は本郡桜井の人 俊敏剛直大度あり。維新後山林濫伐の為水源涸渇災害頻発するを嘆き率先唱導植林事業を創め、
明治35年組合長に就職刻苦経営14年 内機構益々堅まり外業績大に渇がり。
造林二千余町歩、規模広大全国稀也。翁功成り、大正4年辞職せしが、昭和10年再任し、林道の改修造林
の整備愈々適切山林の時価数百万円に上り。特に、大東亜戦争用林供出の功著大也。而も、創始以来約50年、
高齢80猶壮者を凌ぎ、励精日夜解らず功労更に累積す。仍って翁が盛徳を天下後世に伝うる為、茲に之を建設す。
昭和18年12月
今治市及越智郡日高村外九町村
(碑文はカタカナ文)
碑石は山口県産の名石、表面は相川勝六愛媛県知事の揮毫により、裏面は全国有数の書家織田子青の筆にのって刻まれた。
碑文のとおり曽我部翁は、蒼社川及び頓田川水系の治山治水の基となる森林資源の育成を事業としている共有山組合の育ての親である。
共有山組合は、今治市玉川町及び朝倉村共有の組合で、楢原山系に総面積2469haの森林を持ち、
緑の番人として、日夜その育成に努めている。
参考「共有山」砂田清哉著